PROLOGUE

第1回目のゲストはタカさん=釜口貴晴さんです。
この企画を思いついた時に真っ先に思い浮かんだのがこの人。

ハワイ、マウイ島にあるモンスター級の波がくるサーフポイント「ジョーズ」に
WSFでチャレンジしたこともある元WSF日本チャンピオン。
そして、カイトボーディング、SUP、フォイルサーフィンなど、
新しいマリンスポーツをいち早く取り入れてきた、海の遊び方の
伝道師でもあります。

どんな時でも太陽のような笑顔。
パワフルでタフなボディ。
海に出ればメチャクチャかっこいいライデイングでみんなを魅了する。
僕は会うたびに野生動物の様に自由な人だなって、憧れます。

そして、どんな時も笑顔。
大島から江ノ島までSUPで一緒に横断すると、
いちばんキツい時でもやっぱり笑顔。
そんなTAKAさんの笑顔の秘密に触れたいと思います。


● ゲスト = 釜口貴晴 さん
● 聞き手 = 鈴木一也

PART02.WSFと出会い、そしてハワイへ。人生を変えた「TAKA SLIDE」。

――

タカさんがWSFと出会ったのは中学生でしたっけ?

釜口

1984年、中学1年生のとき。父親が山中湖の別荘に僕の友達2人も一緒に連れていってくれて。父親に「やってみるか?」と言われて、スクールで体験したのが初めて。

その頃はWSFが大ブームで、1回のレッスンを20〜30人で一緒に受けた。湖だから波もないし、風も弱かったから簡単に乗れて、すぐに、行って帰ってくることもできた。

で、WSFがいっぺんに面白くなって、休みに山中湖と油壺の別荘に行ってはレンタルで乗っていた。そのうちに自分の道具が欲しくなって、中古の道具を買ってもらって。まだ中学生だから、車にボードを積んで親父と一緒にお台場にも通ったね。

――

別荘が2つも。。。裕福な家だったんですね。

釜口

親父は会社を経営していて、俺は一人っ子だったから、わりと恵まれていたと思う。3歳くらいから少年スポーツクラブに入って、夏はヨット、冬はスキー、あとサッカー、キャンプとかいろいろやっていた。

――

育ったのは東京の目黒でしたっけ?

釜口

そう。で、高校に入ると、これも出会いなんだれど、前の席が江ノ島の料理屋の息子で、「WSFやるんだって?今度、うち来いよ」って誘ってくれて、江ノ島のショップを紹介してくれたの。

それからだよ、ここ江ノ島の海がホームゲレンデになった。

――

高校生のときからウェイブをやっていたのですか?

釜口

いやいや、日本の海はウェイブできる環境じゃないから、あの頃は僕も先輩もみんな、スラロームなどのレース系。ウェイブは強い風で波が大きい、要するに普通の人が海に行かないときに上級者が遊ぶって感じだったな。

――

WSFのプロを目指そうと思ったのは?

釜口

高3のときにはもう、大学に行くつもりはなかった。プロでやっている先輩を近くで見ていたから、そういう生き方のほうが面白そうだなって。「じゃ、本場のハワイ行って修行すんべ」って、ハワイ在住の日本人プロを紹介してもらって。

日本からスラローム用、ウェイブ用、あとサーフボードと、何本も道具を持っていったんだけど、ハワイに行ってはっきりしたことは、ここまで来てスラロームはないってこと。常に大きな波はあるし、風も強いから、走るよりも波に乗ったり、ジャンプしたりするほうが絶対楽しい。だからスラローム用の道具は1、2回使っただけで、全部売り払った。

ハワイはとにかく自然の魅力がすごくて、関わる人たちにもよくしてもらった。もちろん英語はしゃべれないよ。注文するのも「アイ・アム・ハンバーガー」レベル。

1年目は日本とハワイを行ったり来たりで、向こうでの生活も日本人の先輩頼りだったけど、2年目からホームステイして、ローカルと交わる時間が長くなってから、俺も少し変わってきたんだよね。

――

ロコと付き合うようになって心境の変化があった?

釜口

「自分ってなんだろう」って考えるようになった。ここでは日本と違って自己表現しないと、待っていても声をかけてくれない。自分から行かないと何も始まらない世界だってわかってきた。

例えばサーフィンしていて、ローカルから「お前、行け!」とGOサインをもらったのに行かないと、もう波を譲ってもらえない。でも、GOサインが出る波って、いい波じゃないんだよ。「これ、いらんから譲るわ」みたいな感じ。

そんな波でも行くと、「あいつ、どう乗るのかな?」って感じで見ていて、その乗り方で認めてくれたりもする。

――

タカさんなら、誰とでも仲良くなれそう。

釜口

だんだん英語にも慣れてきて、「アイ・アム・ハンバーガー」から“Can I have a hamburger?”に変わってきた。

毎日、風と波があればWSF。風がなくて波だけならサーフィン。風も波もなければ泳ぐかスケボーかハイキング。ホームステイ先の主人が、日本人があまり行かないところも連れて行ってくれて。マウイ島はほぼ網羅するくらいあちこち歩き回った。ローカルと知り合って、触れ合えたのはすごくよかったね。

――

「TAKA SLIDE」が誕生したときの話を聞きたいな。どんな技といえば伝わりますかね。

釜口

ざっくりいうと、波のトップに当てて、風向きを無視して一回転して、また走り出すというトリック。まだWSFのボードがデカい時代で、風上に向かうこと自体がタブーみたいなところがあったから、誰もやったことがない技だった。

でも、サーフィンで360(スリーシクスティ)できるんだから、WSFでも勢いつければできるというイメージはあった。で、たまたまコンディションがいいときに、ピタッてキマったの。

――

気持ちよかったでしょう。

釜口

そのとき、ラッキーなことにローカルの大御所やトップ選手たちがビーチの一番いいところに陣取って、ビールを飲みながら、たまたま俺がメイクしたのを見ていて、「なんじゃ、ありゃ!」「あいつ誰?」みたいな感じで総立ちになって。

――

すごいな、それ。

釜口

「おい、上がって来い!」「こっちに来て祝おうぜ!」って呼ばれているのはわかるんだけれど、すごく興奮していてやばい感じだし、恥ずかしくてなかなか上がれなかった。で、技に「TAKA SLIDE」という名前をつけてもらって。あれからだよね、俺の人生が変わったのは。誰も見てなかったら何も起こらなかった。

――

技をイメージしてからできるまで、どれくらいかかったんですか?

釜口

半年くらいかな。できないのが普通だった。できるときって、すべてがスローモーションのようになるんだよね。

――

1回成功したら、続けてできるようになりました?

釜口

できないよ。でも、できることはハッキリしたから、それからまた練習、練習。肝心なのはスピードとタイミングだってわかった。タイミングがよくてもスピードがないとメイクできないし、逆も同じ。

プロなら単なるメイクじゃなくて、人がハッとするように、速く綺麗にかっこよくキメなくちゃって必死だった。

ロビー・ナッシュ*がコンテストでそんなに勝っていない俺のことを認めてくれたのは、「TAKA SLIDE」をメイクしたこともあるけれど、フリーライディングに気持ちを入れて取り組んでいるのを見ていてくれたからだと思う。

プロを辞めた今も、こうやって店で彼のブランドを扱わせてもらっているんだから、ありがたいよね。

*ロビー・ナッシュ=1963年、米国カリフォルニア州出身。少年時代に家族でハワイへ移住しWSFと出会う。WSF最初期から長年、王者として君臨。90年代にはカイトボード、SUPと活動領域を広げ、活躍するレジェンド。マリンスポーツブランド「Naish」オーナー。

TO BE CONTINUED
2021/12/10